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2005-07-22

儒は詩・礼を以て冢をあばく

今日はどこぞの誰かさんの要望でちょっと中国モノをネタにしてみます。(笑)

中国考古学ブーム加熱!

先頃、西安近郊から遣唐使「井真成」の墓誌(ひょっとして万博に出品されてる?)が発見されたり、紀元前4世紀の戦国時代の竹書の報告書が公刊されたりと、大陸や日本の中国古代史の業界では、今 なかなか考古学が盛んです。中でも古代史で今、上海博物館が 1994年に香港の古物商から買い取った、『周易』や現在の『礼記』の中の一篇である「緇衣」、孔子が『詩経』中の各篇について論じている『孔子詩論』などを含む、戦国時代の楚の竹書(通称、上海博楚簡もしくは上博楚簡。「竹書」とは細長い竹の札を束ねた書物のこと)と、1983年から1984年にかけて江陵県張家山247号漢墓から出土した前漢の呂后二年(前186)の時の律令(通称、張家山漢簡『二年律令』。こちらも竹書)あたりがもっともホットで、中国の簡帛研究網站ではおびただしい数の論文や筆記が刻々と追加されていますし、国内でも今や中国古代は文史哲揃って出土資料を使わない研究がほとんど見られなくなるほど盛んなのが現状です。詳しい状況は最近、東北大の浅野裕一先生や阪大の湯浅邦弘先生が相次いで本を刊行されているので、そちらをご覧になると良いでしょう。

儒は詩・礼を以て冢をあばく..

そういう動きを牽制したり批判したりする訳ではありませんが、今日はやや警鐘めいたお話を紹介します。
儒は詩・礼を以て冢(つか)を発(あば)く、大儒 臚伝して曰く、「東方 作(おこ)れり、事 之れ何若(いかん)」と。小儒曰く、「未だ裙襦を解かず、口中に珠有り。詩に固より之れ有りて曰く、『青青たる麦、陵陂に生ぜり。生きて布施せずんば、死して何ぞ珠を含まん』と。其の鬢を接(も)ち,其の顪を圧し,儒(わたくし)の金椎を以て其の頤(あご)を控(たた)き、其の頰(ほお)を徐別して、口中を傷(そこな)ふこと无(な)からしめん」と。
これは『荘子』の中の一節ですが、儒者は『詩経』や『儀礼』・『礼記』などの古典にある有職故実を証明するために "発冢(墓あばき)" すら辞さないとして、痛烈に皮肉っています。あばかれた墓の主が無機的に扱われている様子が生々しく描かれていて、しかもこの墓の主は、口に咬まされている「珠」(「玉含」といって、目・耳・鼻・口・肛門など死者の体の穴を塞ぐためのものです。口に含ませる玉は蝉がモチーフになっているものが多い模様)のために、今にも金槌でアゴを取り除かれようとしています。何ともむごいシーンですが、これは現在の発掘作業の様子にもそのまま通じます。「儒者」を「ガクシャ」という派生義に置き換えて読んでみてください。笑えないくらい、今の現実そのものであることが分かるかと思います。
ガクシャは古典のために墓あばきをする。エライガクシャが「日が出てきたぞ、作業の進み具合はどうだ?」というと、下積みのガクシャは答えた、「まだ衣服を脱がせていません。口中には "ギョクガン" があります。"シキョウ" という古典にある記載の通りです!遺体の頬ヒゲを抑えて頭を固定し、私が持っている金槌で頬をたたいてアゴを切除し、口中の "ギョクガン" を傷つけないようにしましょう。」
考古学という学問が、一側面としていかに罪深い面を持っているかが痛いほどよくわかります。こういうと考古学だけが悪者になってしまうようですが、基本がデスクワークである文献史学とて、故人のプライバシーを暴くという側面がありますし、必ずしも罪無しとはいえません。

歴史学・考古学は罪深い学問と知れ

さきほども断ったように僕は考古学や歴史という学問を非難しているわけではありません。というより、僕自身も同類で、歴史も考古学も大好きな罪深い人間です。ただ、こういう罪深い側面が歴史学にあることを、それを研究している人、もしくはその恩恵にあずかっている人は折に触れて自分に問いかける必要があるのではないか、ということです。研究や報道の「独自性」や「面白味」に固執するあまり、故人の足跡を弄んだりしてませんか?自分の死後に、自分自身が研究対象にされたとして、自分が行おうとしている行為と同じ扱いをされても良いかどうか、時々 見つめ直す時があってもいいように思います。

すみません、ちょっとネガティブな話になってしまいましたが、今回は自戒も込めて..ということでお許しくださいませ。

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» 和漢洋朗詠集序文 [いろは 伊呂波 IROHA]
和漢洋朗詠集序文  彼を知り己を知ることの重要なるは兵法の上のみならず、 一國の文化の精華たる言語藝術に於てはなほ然り およそ詩とは人間精神の究極の表現にして、如何なる言語に於けるもその言語に内在する規則性を發見し且之を驅使して行ふ叙事叙情の義にして、その言語の有り続け來し在り甲斐を確認する儀式なり。 然るをわが國に於て漫然行分けせられし散文を以て詩と稱して疑ふ色無きは、國語の醇美を損ひ延て國運の前途に翳を落すものといふべし。言語に内在する規則性即ち「韻律」にして「韻律」とは人體に於ける骨組に同じ。韻律を確認せずして詩を論ずるは骨無き人間有り得るてふ前提の下人間を論ずるに等しく、愚劣も極まれり。  經緯隙無く調へられし語形活用表にして、和の心を培ふ五十音圖を言語に於ける使用音標一覧と見做し、音韻の現況に鑑みて不要とて、恣意に二音削り棄てて、活用の歪みを生じ、精神性を畸形せしめし「現代かなづかい」なる變造國語に、今猶横行されて回復の緒見えぬは実にこの韻律認識の淺薄、無思慮に淵因するところすくなからず。  押韻 抑揚平仄規則 音調節のみを以て韻律といふにあらず。むしろ此等はわが國の「いろは」の韻律に比すれば過渡性末義のものなり。假名各音単音にして詞辭多岐に亘る意味を帯ぶる品詞なるが故に、日本語は意味完結せる詩世界を、單なる假字機構の配列換への中に無盡蔵に生み出すを得て、人類諸言語中最も簡潔にして最も過酷なる韻律規則を有す。 即ち  一、四十八音を均分に使用すること     一、假名遣を守ること   これなり これによりて得らるる表現領域は豫見するところ甚だ窮屈と見えながら、却て最も自由自在に萬葉の古調より現代白話詩までつくさざるなく、百代に供用していささかも疲弊無し。英語の押韻詩ややもすれば改廢あり、漢詩又、宋の末頃には文語の域にのみ通用する韻法たりしとは同日の談にあらず。その意義と價値を國際社會に一目瞭然たらしめん為に、愚作いろは字数歌を逐次漢英押韻形に譯して示す次第なり。 何とぞ有志かかる民族精神の粋を蹂躪して恥づる無き造國語の廢棄と正しき國語の復興に向けて立たれんことを切望す。 やまとうたをからえびすうたによみかへてかたみのすがたあきらめあはむ 掲載中の字数歌の漢訳英訳について平仄 文法上の不備錯誤等を有志ご指摘あらば之を歓迎す。   次へ [続きを読む]

受信: 2005-09-04 15:59

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